現代のお寺の目的と役割について考えてみた
こんにちは。 先日、築地本願寺の昨年出来たカフェ「Tsugumi」とブックセンターにお邪魔してきました。
たまたまYoutubeで築地本願寺を取り上げた動画を見たので、行ってみようと思い足を運びました。
なぜこの記事を書いたのかというと、 都民に愛されて、新しく生まれ変わっていく築地本願寺を見て、「お寺の本来の役割と目的は何だろう?」と思ったからです。
※当方、鎌倉新仏教の宗の寺で生まれたけど、住職と全く関係の無い職種の者ですので、仏教についてはまだ勉強中で、独断と偏見があるかもしれませんが、ご容赦ください。
私が思うお寺の抱える現状について考えてみました。
お寺が抱える現状は3つあると思います。
①昔と違ってお寺がなくても生きていける
遥か昔はお寺が政府によって保護されていた時代があったり、明治時代以降も檀家制度などで延命をつづけてきたお寺ですが、
テクノロジーの発展による合理的で大規模な合同墓の建設によってわざわざお寺に足を運ばなくても生きていけるし、
日本は無宗教の人口が多いことでそもそも宗教を信仰する必要がない(年中行事の宗教のつまみ食いでお腹いっぱい)、
という人が多くなってきている現状があります。この現状をわれわれは素直に受け止めなくてはいけないと思います。
②お寺が何をしているところなのか分かりにくい
皆さんが想像する「お寺」とはどのようなものでしょうか?
●お寺=坊主丸儲けのイメージであったり、ベンツ乗り回してるイメージ
であったりするかと思いますが、そういった寺は最近は減ってきてますし、そもそも一握りしかありません。ですが、そういうイメージをされる人も少なくないと思います。
ではお寺は何をしているところか?というと最近は色々なお寺があるので定義は曖昧なところです。
「お葬式をあげる場所」という人もいると思います。
これは現代は葬式仏教のイメージが強いからだと思われます。お寺の本来の役割はそれだけではないはずなのですが、、。
③寺に選ばれる時代から、寺を選ぶ時代
以前は宗派のしがらみや檀家制度や遺言などによって寺の宗派はあらかじめ決まっていたことも多かったですが、
最近は無宗教の人口の増加によって、お葬式をすることやお経を読んでもらうことも個人の自由になっていき、やっと選べる時代が来た感じです。
葬式を最近あげた知人によると、葬式は色々と「めんどくさい」らしいです。
なぜかときいてみたところ、「なんかお坊さんが偉そうにしてるし、葬式のイロハも分かりにくいし、不親切な感じがするから」らしいです。
「住職」に胡坐をかいている偉そうなお坊さんも一部いるということなのでしょうか。
また、最近思うのは、葬式が慣例化しすぎて何のために葬式を上げているのかがわかりにくくなっていることです。
私も勉強中なのでまだ分かりませんが、、。
最近はお坊さん便
イオンのお葬式などもあって便利な世の中ですが、
お葬式をあげる目的や仏事を行う理由は今後考えておかなければ、大変な方向に向かってしまうと思います。
こうした現状を踏まえ、お寺の役割と目的について考えてみました。
〇「お寺」が果たす役割について
「寺」という漢字は、「役所」の意味があったようです。
お寺は本来なら寺子屋のイメージから想像されるように、コミュニティセンターや公民館のような開かれた施設で、敷居の低い、コンビニのような施設であったと思います(※宗派によります)。
例えば築地本願寺のように「開かれたお寺」をスローガンに活動されているところもありますが、他にも親しみやすいお寺を目指し努力されているお寺さん(や活動)は沢山あります。
浄土真宗本願寺派光明寺のオープンテラス(寺の中にテラスがある!)
僧侶と話が出来る寺カフェ
お坊さんがカクテルを作ってくれる坊主バー
フリースタイルな僧侶たち(フリーペーパー)
奈良時代や江戸地代では国家単位で仏教が重んじられていた時代も確かにあったと思いますが、今はそうではないからこそ、「敷居の低い、コンビニにようなお寺」があっても良いのではないでしょうか。
〇「お寺」に来る理由と目的
これは「人々が不安を抱えながらも自分の人生を肯定して生きるために集まるから」
だと私は思います。
奈良時代の鎮護国家思想や、鎌倉新仏教など戦が相次いで社会不安が生じたときに、仏教の教えを通じて、人々は不安を抱えながらも生き抜いてきたのではないかと思います。
また現代では臨床宗教師のように死ぬ前にありのままの自分の人生を受け入れ、生き方を肯定するためにあると思っています。